デビュー当時、サイボーグとかキカイダーとか呼ばれた中嶋常幸選手(当時は中島)が、華やかなAON時代を経て「中年のアイドル」となる過程を偉そうに語ってみました。
中嶋常幸を語るただのゴルフファン
今回は、AONの一角、中嶋常幸選手について、ゴルフファンとして、語ってみたいと思います。
日本ゴルフ界のビッグネームの1人を、遠い遠い所から見ていた、ただの一般人が、どんな影響を受けたのか、あるあるネタとして、ご自分の場合と照らし合わせて頂ければ幸いです。
みなさんの知っているような内容はなるべき省いて、個人的な記憶に残っている小さな事などを書いていきます。
さあ、行ってみましょう!
単行本の最後のページに登場!
中嶋常幸選手を最初に知ったのは、遠い記憶で順番が前後しているかも知れないのですが、たぶんそれは、コミックスの最後のページに出てくる応援文でした。
現在、アラウンド50世代の方、週間少年ジャンプで連載されていた『ホールインワン』というマンガを憶えていますか。
このマンガ、私、大好きで全巻集めていました。主人公の戸橋矢一少年がゴルフ部で活躍するマンガです。
今でもあるのでしようか? ジャンプのコミックスには最後のページに、そのマンガのファンである著名人のメッセージが載っていました。
第何巻だったか憶えていないのですが、そこに中嶋常幸選手の、戸橋矢一君へのメッセージが載っていました。(当時、中嶋常幸選手は22、23歳だったと思います。)
私の遠い遠い記憶では、いつも楽しく読んでいます。勇気を貰っています。みたいな内容だったと思います。
そして、そのメッセージの中で、若き日の中嶋常幸選手はこう言っていました。「全ホール、バーディーで上がる事だって夢ではないと思う。僕もそのつもりでプレイしているよ」。(ホールインワンのコミックスを要確認)
尖がっていたんですね。若き日の中嶋選手。
その尖がった若者の心意気が、78年マスターズの13番ホールで13を叩かせ、全英オープン、セントアンドリュースの17番ホールのガードバンカー(後にこのバンカーは『トミーズバンカー』と呼ばれるようになります)に捕まり、4打を費やし、9を叩かせたのかも知れません。
そのページ(コミックスの巻末)に載っていた中嶋常幸のスイングのフィニッシュの写真が印象的で、シャフトが体に巻きついて、ドライバーのヘッドが空を指すくらい「振っている」のです。
そのフィニッシュは現在の石川遼選手よりも「振っている」感が強く感じられました。そして、風貌は今の石川遼君に負けず劣らずの「少年感」を醸し出していて細かった。
ミスターイーグル
その昔、『週刊アサヒゴルフ』という雑誌がありました。
その雑誌のワンコーナーとして、少年ゴルファーに向けてページがありました。
そこにあった企画が『ミスターイーグルのQ&A』でした。ミスターイーグルとは若き日の中嶋常幸(当時は中島常幸)プロでした。
このコーナーで中嶋プロはイラストとして登場していました。
コーナーを読みながらも、実はプロ入り当初から注目のスター選手だったということを知りませんでした。(マスターズや全英オープンに初出場した後、ちょっと注目度が下がっていた時期でした)
東北クラシック最終組
中嶋常幸選手がAONの「N」になるちょっと前に、私が中嶋プロを認識したのは81年の東北クラシックでした。
最終組の組み合わせは、杉原輝雄、宮本省三、そして中嶋常幸という組でした。
中継を見ていた時、ちょうど家に従兄弟が遊びに来ていました。
ゴルフを知らない従兄弟は、この最終組の杉原輝雄プロと宮本省三プロを見て、
「なんで、お爺ちゃんがゴルフやってんの?」と曰われました。
ジャイアント馬場さんがスタン・ハンセンと闘っているときの馬場さんを見ている時の感情と同様のものです。
杉原輝雄プロは当時でも、トーナメントプロとして活躍している選手の中では最高齢に属していたのは確かです。
宮本省三プロも小柄で、白髪で、歳より老けて見えましたが、杉原輝雄プロよりは若かったのです。
しかし、この時杉原輝雄プロはまだ40歳代前半でした!。
でも、ゴルフを知らない人からしたら、お爺ちゃん2人に見えたのも…。(その時の杉原輝雄プロの年齢より、私も何歳も年上になってしまいました。)
お爺ちゃんに見える2人と同組で頑張った中嶋常幸選手でしたが、優勝したのは、杉原輝雄選手。
この時、お爺ちゃん2人と一緒に回っていたメガネの若造が記憶に刻まれました。「なんでお爺ちゃんのほうが強いんだ?」と。
(杉原プロ、宮本プロ、ごめんなさい)
「Nへの道」
その当時、(80、81年辺り)注目を集めていたのは、湯原信光、羽川豊、倉本昌弘の若手三羽ガラスでした。
中嶋常幸プロはこの頃、藤木三郎プロと行動を共にし、ツアーで活躍しながらも、注目度では三羽ガラスに比べると一歩下がった位置にいて、ちょっと面白いキャラのお兄さんプロとして楽しんでいたようです。
朝の情報番組『ズームイン朝』に藤木三郎プロと一緒にトーナメントの紹介役として出演してギャグを飛ばしていた中嶋プロ。
『N』と呼ばれるちょっと前の期間の思い出です。
82年、初の賞金王に輝く
中嶋常幸プロは『サイボーグ』と呼ばれた、少年の風貌のから、ひょうきんお兄さんに変化し、ついに82年、日本ゴルフツアーの賞金王に輝きました。
オフにスイングを修正して体が左に行き過ぎないようにしたそうです。
やがて、セベバレステロス曰く、「世界で五指に入る美しいスイング」が開花していきました。
身体つきも随分と変化し、スイングも、フィニッシュでシャフトが体に巻きつかなくなり、バックスイングで自然にヒールアップするように変わっています。デビュー当時はベタ足でした。
中嶋選手は当時発売された自分のビデオの中で、「膝の高さを変えない為には、左かかとは上げた方がいい」と言っています。
いざ、アメリカへ
時を同じくし、日本とアメリカを往復しながら八面六臂の活躍をしていた青木功プロがアメリカツアーのハワイアンオープンで劇的勝利を挙げました。
中嶋プロは青木功プロの優勝祝勝会で青木さんに言いました。
「僕もアメリカに行きます‼︎」
これだけの事なのに、私はこの雑誌の記事を読んで、えらく感動したのを憶えています。
(ちなみに、ジャンボ尾崎選手はスランプからの復活に向けて模索中でした。)
ついに『AO』に『N』が加わった。
ジャンボ尾崎選手は復活まで多少くすぶっていましたが、スター選手としての輝きは褪せずに、ファンは彼を待っていましたので、『AO時代』が続いていたと言ってもいいと思います。
そこに、満を辞して『N』が加わったのです。
そして、ジャンボ尾崎が完全復活し、『AON』時代がバブル景気と重なり、日本ツアーは活況を呈しましたとさ。
倉本昌弘選手を加えて『ANKO』時代という呼ばれたりもしました。
(丸山茂樹プロにいわせると彼らを「アルファベット軍団」と呼ぶそうです(笑))
ここから先の中嶋プロのエピソードは、みなさんと同じくらいしか知らないので、このへんにしておきます。
ちなみに、私がいちばん興奮した中嶋プロのラウンドは、マスターズの「アーメンコーナーでの5連続バーディー」ではなく、86年のターンベリーでの全英オープンの3日目のラウンドです。
あっち行ったり、こっち行ったりしながら、アンダーパーで回って、トップのグレッグノーマンに一打差につけたのでした。(この試合、時々スカパーのゴルフチャンネルで放送されます。)
しかし、最終日は残念ながらぱっとしなかった。敗れた中嶋選手のアテスト小屋での涙…。
ゴルフっていいなぁと思わされた試合でした。
中嶋プロのトリビア
パーマをかけ、イメチェンを図る
賞金王になった中嶋プロは、何を思ったのか、パーマをかけます。
中嶋常幸プロといえば、七三分けのイメージだったのですが、『N』になったからには、メディアの注目度もアップしていきます。
誰かからのアドバイスがあったのでしょうか?けっこうイケてました。
中嶋プロは、このパーマ頭でレッスンビデオに出演されています。
その映像はYouTubeで観ることが出来ます。
これは、ジャック・ニクラウスがアーノルド・パーマーの敵役から、イメージチェンジするために、ダイエットして、頭もクルーカットから、ヘアーデザイナーのカットに変身し、カッコいいゴルファーになったのと同様の目的だったにでしょうか。
しかし、中嶋プロはすぐパーマをやめましたw
ミズノ、バンガード
キャロウェイがカーボンヘッドのウッドを発売するずっと前にもカーボンのウッドは存在しました。
クレインゴルフというメーカー知っていますか?
中嶋プロが契約していたミズノでも、カーボンウッドを販売していました。その名は『バンガード』。
テレビCMは中嶋プロが使っているシーンでした。
確か中嶋プロも、本番でも雨の日に使っていたはずです。
でも流行んなかったですね〜。
キャロウェイのカーボンヘッドのドライバーもアニカ・ソレンスタムが使用したけど売れなかった。
なるほどザ・ワールドに出演
中嶋プロは賞金王になって、クイズ番組にも進出!
そこで、一緒に出ていた明石家さんまさんに向かって、「さんまは、夕飯のオカズですよ」といって、さんまさんに「素人が調子にのってけつかりおって」とかなんとか言われて逆襲される。
中嶋プロは現在、ラジオ番組「ティーグラウンドへようこそ」のパーソナリティーを軽快なおしゃべりで務めてらっしゃいますが、その下地はこの頃から培われていたものだったのですね。
ドライバーに顔の油を塗る
これも、なるほどザ・ワールドだった気がするのですが、クイズは、
「中嶋常幸プロがドライバーを長持ちさせるためにやっている事は何でしょう?」というものでした。(当時はパーシモン)
答えは、「顔のアブラをつける」でした。実際ドライバーのヘッドを顔にスリスリしていました。
実際、昔のクラシッククラブは、パーシモンをオイルに長期間浸けて作るのです。中嶋プロはそれを顔の脂でやっていたのですね。
中嶋プロのパターは、長かった。
中嶋プロはピンパターに9番アイアンの長さのシャフトを差していました。これがカッコよかった。
鼻血の手術を拒否
中嶋プロは、鼻血の手術で、鼻の穴の奥を焼く手術を勧められたが、「ゴルフは嗅覚でやるものだ!」と言って鼻の奥を焼くことを拒否したそうです。
最後に
私の薄い記憶で無謀にも、中嶋常幸プロについて語ってみましたが、もしも中嶋プロ本人がエゴサーチしていてこのページを読んだら、「なに勝手なこと書いてんだ!」と言われてしまいそうですね。
中嶋プロ、ごめんなさい。私はただのファンです。
中嶋常幸選手の伝説のアイアンTN87
中嶋常幸選手がミズノとクラブ契約していた時代にミズノと一緒に作り上げ、使用していたアイアンが『TN87』。
伝説のアイアンです。
私も欲しかった憧れのアイアンでした。(使いこなせるかは別として)
アイアンの溝ルールやボールの進化などによって、TN87は、その役目を終えたと中嶋常幸さん本人も雑誌の中で仰っておりました。
このTN87は、タイガー・ウッズがイケイケだった頃に使用していたミズノのMP-14の原型となったモデルです。
※ミズノでは、TN87の復刻版を限定販売しました。
関連記事
AON時代の少し前のAOMの時代を覚えていますか?レジェンド村上隆プロ