1987年、就職のために上京して初めて生で参戦したのが正やんこと伊勢正三さんのコンサートでした。
記念すべき私の初の正やんライブ体験を忘れずに残しておくためにメモっておいた記録(全然記録になっていない)と記憶のコンサートのリポート記事になります。
伊勢正三フリークの方の、参考資料になれば幸いです。
初めて伊勢正三さんのコンサートに足を運んだのは、1987年の中野サンプラザでした。
当時、上京1年目のお上りさんの私は、20歳にして、恥ずかしながらコンサートというものに参戦したことが一度もないという地方出身のぼーっとした男でした。
それまでに経験したコンサートに近い思い出といえば、高校生の時に、故郷の地元のスーパー(仙台駅前エンドーチェーン)の屋上でデビュー当時の中森明菜さんのショーを観たことくらいでした。
そんなある日、唯一アルバムをそろえるほどファンだった伊勢正三さんのコンサートがあると知って、もうこれは観に行くしかないと初参戦しました。
87年、約3年ぶりのアルバム『OUT of TOWN』がリリースされました。
現在の私の年齢では3年というと、けっこう、あっという間の感がありますが、当時は3年アルバムが出ないと、正やん、やばい。
まさかこのままフェードアウト?という不安を感じさせる長さでした。
このアルバム『OUT of TOWN』に収録されている曲『ひさしぶりのしょうがないやつだ』は、CDの歌詞カードの歌詞を縦読みすると、伊勢さんからのメーッセージが隠されています。
3年、アルバムが出ないことは本人にしても間が開いていると感じていたのですね。
(その後、このアルバムから次回作『海がここに来るまで』まで6年待たされるとは考えもしませんでしたw)
しかしこの6年の間、伊勢正三さんはライブ活動も行っていて、ブラジルの音楽祭に招かれたり、ニューヨークで曲作りしたりしていたそうです。
1987のコンサートに行った時は3年アルバムが出ないことにファンとして焦り、その後6年アルバムが出ないことに、諦めを感じたりしたこともありましたが、自分が歳をとってしまったせいか、それとも正やんのそれまでの作品が十分に満たしてくれたのか分かりませんが、約16年の月日があっという間だったような気がします。歳とると時間が早くなるって本当ですね。
このコンサートのチケットは、どうやって購入したか覚えていない(チケットぴあだったかなぁ)のですが、急いで取ったにもかかわらず取れた席は2階席でした。(ハロプロの中野でのコンサートでいうところのファミリー席の位置ですね)
急いでも2階席しか取れなかったのに、現場に着くと、当日券が売られていました。実際、2階席の最後列辺りは埋まっていませんでした。
伊勢正三さんは武道館公演もやっているビッグアーチストなのに、これは意外でした。時代はバブルの真っ只中でした。世の中全体が浮かれ過ぎていたのでしょう。
(この年アルバムの中の曲『悲しくて』の歌詞に時代が感じられませんか?
止まらない、タクシー、六本木、〈著作権の関係で歌詞は書けません〉
この頃はみんな、伊勢正三の歌を一時、青春の思い出として仕舞い込んでいたのかもしれません。
コンサートが始まりました。
もう記憶が遠くてコンサートの内容が思い出せなくなってしまいましたが、断片的な記憶でリポートします。
この時の中野サンプラザへ行かれた方は記憶を照らし合わせてみてください。
一曲目はたしか『雨の物語』で、ステージが明るくなった瞬間、うぉーっと客席が沸いた記憶があります。違いましたか?
中盤のお約束?のリクエスト弾き語りコーナー。
お客さんが「海風〜」と叫ぶと伊勢正三さんは少しうろたえて「あとでやりますから」と。
で、リクエストで何を歌ったのか全く記憶なし。トワエモアの『誰もいない海』を歌われたのはこの時でしたっけ?
MCで、『レレレのおじさん』の話で笑いを取っていたような。
(私の妄想かも)白のストラトを使っていた時、機材が不調だったのか伊勢正三さんは曲中に舞台袖に向かって何か指示していた伊勢さん。
サポートには上田知華さんと岩崎 雄一さん。この1ヶ月前のNHKFMニューサウンズスペシャルでも競演されていました。
(このラジオ番組ではコンサートの日付を間違って告知していたはずです。)
コンサート後半にはアレンジャーの大島ミチルさんがキーボードで参加(大島さんはその後ゴジラ映画三本の音楽を担当されました!)
そして後半の後半には、なんとストリングス集団が出てきました。お金かけてたんですね。やっぱりバブル時代だったからでしょうか。(その後3回伊勢正三さんのコンサートに行けたのですが、バイオリニストさんがゲストの時はありましたが、ストリングス集団が出たのを見たのはこの時だけでした。
そしてこの時ちょっとしたハプニングが?
伊勢正三さんが突然オーケストラの方々に向かって
「予定と違うのやります」
と言ってギター1本で『お前だけが』を歌い出しました!!
ここはハッキリ覚えています。レコードではファルセットで歌っていた「よ.る.が〜と.て.も〜」の部分を地声でシャウトしておられました‼︎
(同じ頃出たシンプジャーナルのインタビュー記事で、ご自分で仰っていました『お前だけが』を地声で表現できるようになったと。)
これをひな壇で休憩中のストリングスのお姉さんがうっとりして聴いていました。
伊勢正三さんはこの時期既に声質とボーカルスタイルが風の時代とは変わっていましたが、意外にも、この時期にいちばん高音域を地声で出していたというのは事実でしょう。
追記)と思っていたのですが、『風』の初期でも地声で『お前だけが』を歌われていらっしゃったようです。
結局ストリングスが入った曲は何だったっけ?たぶん『けんかのあと』だったような。
アンコールではやっぱり『海風』
1階席のお客さんは立ち上がってステージ下まで駆け寄って手拍子し始めました。
その光景を2階席から眺める私。
ああ!ついに生の正やんのコンサートを堪能した。
最後にロビーで「ラブソング主義」という伊勢正三さんの歌詞集を買いました。
近くにいたご夫婦は『OUT of TOWN』のLPレコードをお買い求めになり、帰り際こうつぶやいていました。「これでまた、しばらく仕事しないだろ」
ご主人!あなたの予言は正しかった!
おまけ。87年の伊勢正三メディア情報
私が知っているものだけですが、正やんコレクターのお役に立てたら。
87年の雑誌「BIG tomorrow (ビッグトゥモロー)」の富沢一誠さんのコーナーにインタビュー記事で登場。
この時期、ジャガーに乗っていたらしい。現在女優さんの娘さんがインタビュー中に小学校から帰ってくるという内容だったと記憶しています。
もう廃刊してしまった「シンプジャーナル」にニューアルバムについてのインタビュー記事が1ページ。
私はそのページを見て、大御所の伊勢正三にこの1ページは扱いが小さくて失礼だなと感じました。
当時は、ニューミュージック界(フォークとロック)は様変わりしていて、BOØWY、尾崎豊、浜田省吾、TMネットワークあたりが流行っていて、伊勢さんは自分の意思で気配を隠しているように感じました。(ほんとのところは知りませんが)
そのインタビュー記事には、「気持ち悪いと言われてボイストレーニングをした」とか、自分のアルバム「オレンジ」が気に入っているとか「お前だけが」を地声で表現できるようになったという内容が載っていました。
ニューアルバムの広告『OUT of TOWN』のキャッチコピーは、
シンプジャーナルに載っていたニューアルバム『OUT of TOWN』の広告のキャッチコピーは、
「ラブソング主義」でした。
やっぱ、そうなりますよね。
コンサート会場で売られていた歌詞集のタイトルもそういえば「ラブソング主義」でしたね。
レコードとCDが半々の時代
私は『OUT of TOWN』が発売するのに合わせて、CDプレーヤーを買いました。
そして、記憶がもうないのですが、レコードプレーヤーも持っていないのに、この時に発売されたシングル「悲しくて」と「All I need’s your Love」をレコードで買いました。
買った時はCDプレーヤーを買うとは思ってなかったのです。
「All I need’s your Love」のB面は「けんかのあと」シングルバージョンというレアな音源だったのですが、プレーヤーがなく一度も聴かないまま、この2枚のシングルレコードはヤフオクで売ってしまいました。
ヤフオクで売ったのは完全にCDの時代になった後の話なのですが、コレクターがいらっしゃるのですね。
追記)この、『けんかのあと』のシングルバージョンを偶然YouTubeで聞くことができましたが、リズムが「スカ」みたいな感じのアレンジで、なんか拍子抜けしてしまいました。
『けんかのあと』のベストバージョンは、NHK-FMの『ニューサウンドスペシャル』でのスタジオでの弾き語りでライブの演奏です。
私の知っている87年当時の伊勢さん情報はこれぐらいです。
追記) この頃、30代だった伊勢正三さんも、年金を受給する年齢になられました。
伊勢正三はまだルックスも若々しく、羨ましい限りです。
ずっと歳の若い私のほうが外見は歳上になってしまったかもしれません。
正やんのファンです。と、言いにくいルックスになってきました。
それだけ、伊勢正三の楽曲は、ロマンティックなのですよね。
他サイトの伊勢正三さんの記事
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